仏教と心理学のはなし

僧侶と心理士の二足の草鞋を履く、禅寺の副住職による随筆。

洞泉寺ゆかりの名刹、龍雲寺に参拝。

先日参拝した新潟県魚沼市にある 曹洞宗 金城山 雲洞庵に引き続き、同じく洞泉寺にゆかりのある名刹に参拝してきました。

 

長野県佐久市にある、曹洞宗 大田山 龍雲寺です。

 

龍雲寺本堂

 

尚、洞泉寺とゆかりのある名刹、雲洞庵の参拝記録についてもブログに書いています。よろしければ、こちらからご覧ください。

daienryowa.hatenablog.com

 

 

洞泉寺と龍雲寺のゆかり

お寺には本寺と末寺の繋がりがあります。

どのような経緯でこの繋がりが生まれるのかを簡単にご説明します。

例えば、A寺で修行した僧侶が独立してB寺を創建したとします。すると、

A寺:本寺

  ↓

B寺:末寺

という繋がりが生まれます。筆者のお寺である洞泉寺も、この繋がりの中で生まれました。宗派関係なくどの寺院にも共通し、こうして脈々と仏法が受け継がれていく訳です。

 

洞泉寺の本堂。

 

例に倣って筆者が副住職を務める、洞泉寺の系譜を今回参拝した龍雲寺と雲洞庵を含めて記述してみると、以下のようになります。

 

鶏足山 洞泉寺:新潟県十日町市

積雲山 長安寺:新潟県十日町市(洞泉寺の本寺)

大田山 龍雲寺 :長野県佐久市長安寺の本寺)

金城山 雲洞庵:新潟県魚沼市(龍雲寺の本寺)

 

となります。

つまり、龍雲寺は雲洞庵の末寺であるとともに、

洞泉寺の本寺である長安寺のそのまた本寺、ということになります。

人間の家族で例えるならば、長安寺が洞泉寺のお父さんで、龍雲寺がおじいちゃんということですね(笑)。そして、雲洞庵はひいおじいちゃんです。

 

フリー写真 夕焼けの空と父と息子のシルエット

 

こうした系譜を更に辿ると、曹洞宗の寺院は全て道元禅師が創建した福井県にある大本山 永平寺に最後に行きつくことになります。

 

曹洞宗 大本山 永平寺。写真に写るのは唐門。皇族の入山時や貫主の就任時など、特別な場面のみに開門される。

 

龍雲寺の歴史

鎌倉時代に1312年に臨済宗の寺院として建立されたものの、戦火に遭って徐々に衰退していきます。戦国時代、甲斐国守護大名武田信玄公が本格的に信濃を侵攻を企てます。

その過程において曹洞宗寺院の支配拠点とするため、越後(当時の新潟県)の雲洞庵より当時の十世住職であった北髙全祝禅師を龍雲寺に招聘します。詳細は不明ですが、永禄年間(1558年~1570年)の出来事であったと考えられます。

 

当時の武田信玄公と北髙全祝禅師のやり取りの様子が窺える資料があります。これは新潟県魚沼市の雲洞庵の宝物殿にて展示されている、信玄公から禅師に宛てられた書簡です。仏教的にもどれだけ価値があるのか…。この書簡は息を飲みます。

信玄公から禅師に宛てられた書簡。雲洞庵 宝物殿に展示されている。

 

この書簡の現代語訳も添えられています。それがこちら。

武田信玄公による書簡の現代語訳。北髙全祝禅師を招聘し、龍雲寺が繁栄していく様子を讃えている内容です。当時の信玄公の気持ちの高ぶりが伝わってきます。

 

当時は現代のようにあたり前のように教育を受けられる環境は整っていませんでした。その時代にあって、僧侶は舶来の教養を供えた存在であり、頻繁に教育者としての役割を担っていました。そのため、国主となるような上位の武士は幼少期の頃から寺院に入り、僧侶から教えを受けることが一般的でした。

 

雲洞庵の十世住職北髙全祝禅師は、戦国時代きっての英雄上杉謙信公、武田信玄公から絶大な信頼を置かれ、帰依されています。この誰もが知る2人の顔ぶれから帰依されるって…。一体どれだけ高邁な方だったのでしょう。想像がつきません…。

雲洞庵本堂。

その縁あって、武田信玄公は信濃(現在の長野県)を管轄するにあたって師である北髙全祝禅師の力添えを求め、当地へ招聘し龍雲寺を中興することとなります。

これが、上記のように雲洞庵から洞泉寺までの系譜を生み出す因縁の一つとなる訳です。歴史に想いを馳せると、武田信玄公はあまりにもかけ離れた存在ですが、何だか勝手に親近感が湧いてきます(笑)。

 

龍雲寺の伽藍(お寺の建物)

参拝して撮影してきた伽藍を紹介していきます。

 

総門

 

到着すると、まず目に入ってくる総門です。”黒門”とでも呼びたくなる、瓦屋根を構えた黒塗りの荘厳な造りです。武田家の勢力を象徴しているかのようで、圧倒されます。

 

龍雲寺の総門。

 

総門の向かいには幹が非常に太い大木があります。特に根本の広がりは力強いです。樹齢が一体どれほどなのかが気になります。

 

総門の向かいにある大木。根本が非常に太く広がっている。

 

総門は基本的に閉じていますが、回り込むと大田山 龍雲寺と彫られた石碑が両端にそびえる入り口があります。

 

総門を回り込むとある入口。

山門

 

入口を抜けると見えてくる山門です。そもそも、山門を有さない寺院も多い中で、これだけの造りに拘るあたりに、武田家にとって龍雲寺が果たす役割の大きさが物語られています。カメラの画面に収まりきらない程の、流石の迫力です。”大田山”と書かれた額縁の下には武田家の家紋である、武田菱がある。

 

山門。木陰の向こうに凛とした姿が望める。

本堂

 

山門をくぐった先にある本堂。石塔や木々との調和がとれた、上品な雰囲気を醸しています。

 

本堂。

 

鐘楼堂

 

赤い装飾の施された鐘楼堂。

 

鐘楼堂。

武田信玄公の霊廟

 

手前に庫裡と本堂を繋ぐ廊下があります。下をくぐった先に、武田信玄公の霊廟へと繋がる道があります。

 

廊下の下をくぐると、霊廟が見える。

 

廊下の下をくぐると、霊廟が見えてきます。

霊廟。武田信玄公の遺品が納められている。

 

まとめ

総門、山門、霊廟と、本堂を囲んで伽藍が整備され、それぞれの造りの荘厳さに武田信玄公の篤い信仰心が窺い知れる名刹です。

出兵の際には、必ず龍雲寺に足を運び戦勝祈願を欠かさなかったのだそうです。

洞泉寺のルーツを知るため、ゆかりの寺院を巡らせて頂いています。雲洞庵から始まり、今回は龍雲寺。様々な人々の想いが生み出す因縁が重なって、寺の系譜が出来ていきます。

ルーツを知ることは、僧侶としてのモチベーションを高める上で重要であることを、参拝しながら再確認する次第です。

 

合掌

 

ルーツ巡りを支えるスズキGSR250。10年乗ったが、まだまだこれから。ツーリング×カメラ×ブログを掛け合わせた、とても有難い活動をさせて頂いております。

 

筆者紹介:大円良和(だいえんりょうわ)

新潟県十日町市 曹洞宗 鶏足山 洞泉寺の副住職。”大円”は僧名。同時に臨床心理士公認心理師の業務にも携わる。

心理学を専攻した僧侶として、ご遺族のグリーフケアに少しでも出来ることはないかと考える。開かれた禅寺を目指す。

当ブログと同時に洞泉寺ホームページを運営。精進料理レシピ紹介、SNS投稿、遊びを通じた仏教文化への触れ合い体験の提案などに取り組む。

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