洞泉寺ゆかりの名刹、雲洞庵に参拝
本寺と末寺
お寺には本寺と末寺の繋がりがあります。どのような経緯でこの繋がりが生まれるのかを簡単にご説明します。
例えば、A寺で修行した僧侶が独立してB寺を創建したとします。すると、
A寺:本寺
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B寺:末寺
という繋がりが生まれます。筆者のお寺である洞泉寺も、この繋がりの中で生まれました。宗派関係なくどの寺院にも共通し、こうして脈々と仏法が受け継がれていく訳です。
洞泉寺の系譜
例に倣って筆者が副住職を務める、洞泉寺の系譜を今回参拝した雲洞庵まで辿ってみると、
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となります。こうした系譜を更に辿ると、曹洞宗の寺院は全て道元禅師が創建した福井県にある大本山 永平寺に最後に行きつくことになります。
因みに、洞泉寺には末寺はありません。
本寺と末寺の説明が長くなりましたが、本題の雲洞庵の記述に移ります。
越後が誇る日本屈指の名刹、雲洞庵
今から約1300年前、奈良時代に内大臣の藤原房前公(藤原鎌足の孫)が母を弔うために、南都六宗の一つに数えられる律宗に属する尼僧堂として、雲洞寺を建立しました。
それから時が経ち、1429年。上杉憲実公が関東管領家の菩提寺として、曹洞宗に改宗し金城山 雲洞庵としました。藤原家は上杉家の先祖にあたります。その際、当時の曹洞宗の名僧、傑堂能勝禅師(けつどうのうしょう)を開山に招聘しました。歴史を記す案内板が、入口手前に設置されています。
敷地に入ると、開山である傑堂能勝禅師の石碑があります。禅師の前身はかの有名な楠正成(くすのきまさしげ)の孫にあたる、楠正勝(くすのきまさかつ)であると言われています。ただし、これは確固たる根拠が残されておらず、あくまでも一説によるものだそうです。
更に雲洞庵の歴史で特筆すべきは、第十世住職である北髙全祝禅師(ほっこうぜんしゅく)の功績です。禅師の徳を慕って上杉謙信・武田信玄という時の錚々たる英雄が帰依し、更に数百名の修行僧が全国から集まったと言われています。
上杉謙信と武田信玄ですよ…。誰もが知っているこの顔ぶれが一寺院に帰依するとか…。度肝を抜かれるスケールに想像が追い付きません…。
更に第十三世住職通天存達禅師(つうてんそんたつ)の下で、上杉謙信の後を継いで越後国主となった上杉景勝公や、その家臣である直江兼続公が幼少の頃に修行に励んでいます。
筆者は学生時代に戦国無双と大河ドラマ「天地人」に熱中していました(笑)。それらに登場する戦国時代きっての英雄達が雲洞庵で修行に励んだということ、そして筆者が副住職をつとめる洞泉寺のゆかりの寺院であるということが、興奮せずにはいられないのです…。
とにかく、日本屈指のとてつもない名刹であるということをご理解頂ければ結構です(笑)。
伽藍(建物)の紹介
順に主要な伽藍を説明していきます。
赤門
1429年、関東管領家より十万石の格式を得て建立された赤門と呼ばれる山門です。
ここで出てきた”十万石の格式”についてご説明します。これは、十万石の大名と同等の格式ということを意味します。江戸時代の基準で考えると、十万石以上を獲得している大名というのは、日本全体の藩の2割前後しかありません。そう考えると、たいそうな格式であることが分かります。
実際に十万石を獲得したということではなく、同等の格式を得たということです。
雲洞庵の土踏んだか
古くから越後の国では、雲洞庵は曹洞宗の厳しい修行道場として多数の雲水(修行僧)が門戸を叩きました。そこから、禅の道に進もうとする者の修行歴を問う言葉として、「雲洞庵の土踏んだか」と言われて篤く信仰されてきました。
また、赤門から本堂に至るまでの参道に敷かれた石畳には、一石一文字ずつ法華経が記されており、参道を踏みられる有難みからそのように言い伝えられたともいわれているようです。
ここで話が広がりますが、雲洞庵のある魚沼市には臨済宗 最上山 関興寺という、やはり関東管領上杉家・上田長尾家ゆかりの名刹があります。
上杉謙信公の亡きあと、上杉景勝公と長尾景虎公による激しい家督争いが勃発しました。景勝公に縁の深かった関興寺は景勝側の逃げ込んだ兵士を匿い、また景勝公から寄進された大般若経を味噌桶の中に入れて戦火から守ったと言われています。
戦火から大般若経を守った関興寺の味噌には甚大な功徳・御利益があるに違いないと、味噌を分けて欲しいと参拝者が後を絶ちませんでした。そのエピソードから、”関興寺の味噌なめたか”と言われるようになりました。
魚沼市の2つの名刹を並べて、”雲洞庵の土踏んだか、関興寺の味噌なめたか”というフレーズはあまりにも有名です。
杉の木に囲まれた参道を進むと、鐘楼堂や大香炉があります。
庫裡
受付を兼ねた、庫裡が入口となっています。御守り、御朱印、数珠等の販売もされています。
宝物殿
雲洞庵ゆかりの戦国武将、歴代住職の遺品や書簡が展示されている宝物殿があります。じっくり観ると、1時間では足りないかもしれません…。
宝物殿の中に進んでいきます。
ごく当たり前のように、とんでもない書簡が揃っています。息を飲みますよ…。
書簡のみならず、遺品も圧倒的。上杉謙信の遺品があります…。興奮が止まりませんよ。やべぇって…。
このような品もありました。
法堂
大般若会をはじめとした年間行事や、年忌供養が厳修されます。本尊は南無釈迦牟尼仏です。流石の名刹、法堂も広く厳かです。
座禅堂
本堂から渡り廊下を進み、座禅堂があります。一般参禅も団体で受け付けているそうです。
客殿
渡り廊下を更に進み、観音堂を過ぎると客殿があります。心地よい風が流れます。
まとめ
今から600年程遡ること室町時代、上杉憲実公により曹洞宗に改宗のもと再興された雲洞庵。ただし、更に元を辿ると藤原房前公によって前身となる律宗 雲洞寺が建立されたのは1300年前のことです。
曹洞宗の大本山である永平寺を道元禅師が建立されたのは1244年、今から780年前のことですから、雲洞庵自体の歴史は永平寺よりもはるかに先に端を発しています。
時代の影響を受けつつも、数々の戦国武将が指針とする程の名僧を輩出し、仏法を脈々と守り続けた雲洞庵の功績は甚大です。
筆者が副住職をつとめる洞泉寺のルーツを辿ることで、禅の道に進む立場として改めて身が引き締まる感覚を覚えました。心身堅固し、精進致します。
合掌
筆者紹介:大円良和(だいえんりょうわ)
新潟県十日町市 曹洞宗 鶏足山 洞泉寺の副住職。”大円”は僧名。同時に臨床心理士、公認心理師の業務にも携わる。
心理学を専攻した僧侶として、ご遺族のグリーフケアに少しでも出来ることはないかと考える。開かれた禅寺を目指す。
当ブログと同時に洞泉寺ホームページを運営。精進料理レシピ紹介、SNS投稿、遊びを通じた仏教文化への触れ合い体験の提案などに取り組む。
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